「文章を書いていてどの瞬間が一番楽しいか?」と聞かれれば、「自分の思ったことをそのまま言語化出来た時」だと答えるだろう。
でも、自分は言語化することををサボる瞬間が多々存在する。
言語化のサボり方は2パターンある。
1つは100ではなく70程度にするパターン。自分はこれがめちゃくちゃ多い。
つまりどういうことかと言うと、完璧に言語化出来たものを100とする場合に、7,80程度の言葉で片付けてしまうということである。言語の手抜き作業だ。
自分の中での“完璧な言語化”というのは、“少しのユーモアを交えつつ的確に状況や熱量を届けること”と位置付けている。自分が日記やエッセイを書く時は出来事を中心に書くことが多いので、情景描写に本腰を入れることはほとんどない。その時の景色や場面をありとあらゆる形容詞を総動員したところで、着飾った感が丸出しになってしまうためである。それよりも、自分は出来事に対し少しアレンジを聞かせながらテンポを出すことに重きを置いている。
「せせり家族」では仕込んであったせせりを食らいつくしていく家族の様子を、戦国時代の戦地に置き換えて“焼け野原”と表現しながら話を進めていく。我ながらこの例えは気に入っている。
この時は、いろいろ考えた結果“焼け野原”という状況を説明する上で的確な言葉を使えているので、言語化をきちんと完了したエッセイだ。
しかし、他のエッセイや日記ではそれっぽいことは言えているものの、あくまでも1つ目に出てきた不完全体のものを提供しているので、単なる妥協言語としか言えないものとなっている。完璧に言語化出来たものがこだわり溢れた小料理屋エッセイだとすれば、7,80%で妥協したものは効率重視のチェーン店エッセイである。それなりに満足させられるぐらいのクオリティを続けてしまっているので、評価を上げるには抜本的な改革をしなければならない。これは最近の反省点である。
言語化のサボり方のもう1つは、自ら生まずに他人の言葉をそのまま使うパターン。
自分はこれをなるべくしないようにしている。流行っているものに流されず、自分を持っておかないと、ただでさえ存在価値がないと思っている自分が、消えてなくなってしまうような気がするからだ。
このサボり方は、ざっくり言えばSNSやメディアの流行りに流され、「ハラスメント」「老害」「エモい」「ヤバい」を使うことである。これを使うこと自体が悪ではない。自分もエモい曲を聴けば「エモい」と言うし、何か凄いものに触れた時は「ヤバい」を使っている。ただ、それだけでは済まさないように「何がエモいのか?」「どうしてヤバいのか?」をなるべく頭の中で言葉にしたり、実際に文章に書いたりしている。
誰かが使った言葉で人や作品を型に当てはめる行為は、とても楽なのだが、同時にとても失礼である。その人や作品の本質を見ようとすることさえしなくなってしまっては、何も得ることが無いだろうし、これまで得ていたはずのものも失ってしまうだろう。
この言語化に関する意識をさせてくれた人物が2人いる。
1人はオードリーの若林正恭さんである。
去年の夏頃から急にオードリーに傾倒し始めた自分は、秋ごろから『オードリーのオールナイトニッポン』を聴くようになった。ある回で若林さんが「老害とか飯テロとか自分が簡単に被害者になる言葉を使うやつが嫌い」と言っていてものすごく共感してしまった。言語化をサボっている人に対しての怒りを、的確に若林さんが言語化している。漠然としたモヤモヤをきちんと分析して言語化する能力が若林さんは非常に高い。また別の回では「流行り言葉を使うのは、ファッションが分からず他人のセンスに任せているのと同じだ」という旨の発言をしていてなるほどなと思った。自ら何か言葉を生み出さずとも、マネキン買いをすれば自分を着飾れてしまう。言い得て妙だと思ったと同時に、自分のオリジナリティを持つために言語化能力は鍛えておかないとなとも思った。
2人目は甲本ヒロトだ。
先日公開された伊集院光とのインタビューでこう語っている。
全部言い訳じゃねえかって。もっと考えると昔の偉い哲学者の言葉なんかも全部言い訳なんだよね。悟ったようなこと言っててもあれはあきらめてるだけなの。立派な人はがんばるのをやめるための言い訳がものすごく上手で、そうすると尊敬される。なぜかというとみんながその言葉を自分の言い訳に使えるから。僕が昔から歌ってきた歌も「これ名言だ」なんて言われることがあります。でもよく考えてみて? それは言い訳だからね。僕の言い訳をみんな自分が楽に生きるために使ってるだけなんです。
凄い考え方だと思った。“名言”とされているものが心に響くのは、諦めや逃げることが肯定されるからだと甲本ヒロトは言語化している。人の言葉を使って楽をしたくなってしまうのは、考えることから逃げたいからだと気づかされた。甲本ヒロト自身理屈っぽく、作品の受け取られ方に悩んでいたようなので、経験からくる言葉だけあって重みがあった。
言語化について気づいたことを書いているのに、他人の言葉を引用しすぎている気がする。今回だけ許してほしい。
現在、若林さんのモヤモヤしていることがきっかけとなってオードリーANNでは『言語化できない』のコーナーが始まっている。「こういう人が苦手」「これが好き」と言った漠然とした共通認識(または理解できないもの)が送られてくる。それに対してあーでもないこーでもないと言うのだが、自分としては言語化されてスッキリするのも好きだが、言語化されていない漠然としたままの状態も意外と好きだ。
自分の中で言語化することは台本としての楽しさがある。きちんとした作品として面白がれる感覚があるからだ。
曖昧なまま放置しておけばエチュードとしての楽しさがある。型に当てはめることもなく、その時々によって共感したり反感したり出来るからだ。
“言語化できる能力”はきちんと鍛えた方がいいが、“言語化出来た上であえて言語化しない能力”も大事にした方がいいのかもしれない。
今回もそこそこ言語化出来た気がする。
完璧に言語化できるように、思考をまとめて文章を書いていくしかない。