図書館で本を読んでいた。
普段からあまり本を読むタイプではないのだが、時々訪れる積極読書期に突入しており、先日借りた本3冊を返却しに行くついでに、新しく借りる本を選んだ。
(この2冊とExcelの本)
自分は家で集中して本を読めるタイプではなく、移動中や施設などの出先でしか読めない。なので、借りる本は30分ぐらいかけて決めた後、読書スペースで読むことにした。大きなテーブルがあり、そこを挟んで向かい合うように一人用の椅子が2つずつ並んでいる。片方の辺の椅子に1人先客のおじさんが本を読んでいて、自分はおじさんの意識になるべく入らないよう斜め前の席に座った。
今回読んだのはピース・又吉直樹『夜を乗り越える』。影響を受けた本や自身の読書・作家体験を用いながら、「なぜ本を読むのか」「人間とは何か」について持論を展開していく著者初の新書である。共感できる部分もありつつまだ自分が体験したことのない読書体験への興味に魅かれ、1時間半ほど没入して読み込むことが出来た。
集中力も切れかけてきたので、本を閉じ辺りを見回した。活字の世界に没入した後だったので、顔を上げて本棚を見ると来た時よりも少し色鮮やかに見えた。紙面の白黒を見すぎたのか、視力を使いすぎたのかは分からないが。ちょうど昼の1時前だったこともあり、気づけば周りで自分と同じように本を読んでいた人たちはいなくなっていた。斜め前のおじさんもいなかった。
本を借りるためカウンターに向かおうとカバンと借りる予定の四冊の本を持ち立ち上がってふと横を見ると、椅子が引きっぱなしになっていた。思い返せば自分が席に座った時からその椅子は机に被らないよう外に出ていたのだが、自分は気にせず隣の席に座った。真正面の椅子を動かすと気が散るかもしれないというおじさんへの配慮だったのかもしれない。立ち上がり自分の椅子を机の下に滑り込ませ、同様に引きっぱなしだった椅子も直そうとした。その時、ふと「ここに誰か座っていたら申し訳ないな」という感覚が顔を覗かせた。
もちろんそこの椅子には誰にも座っていない。斜め前のおじさんが立ち去ったことに気が付いていなかった様に、自分が夢中になって本を読んでいる間に誰かが座って立ち去ったのかもしれない。が、目視で確認する限り、座面にそのお尻のぬくもりや痕跡が見当たらなかったため、自分がその席の横に座った11時から前に誰かがそのまま放置していただけである。
普段から幽霊の存在も別段深く信じているわけではない。それでも、なぜか「ここに誰かが今座っているかもしれない」と思ったのは、本を読んで直後の創作欲に駆られていただけかもしれない。
「もし自分がこんな能力を持っていたら」だとか「もしないものに意思があったとしたら」ということを常日頃考えている。想像上の自分は圧倒的な力を持ち世の中の理不尽を正すため孤軍奮闘しているし、コロナ禍で出現率が上がったサーキュレーターを見ると「こいつに『われわれは宇宙人だ』とか『あ~』とか言ったら『いや扇風機、扇風機!』とツッコんでくれるのかな」なんて妄想までしてしまう。こんなしょうもない想像が創作において助かる場面が多い。
今回もそういう類のことだったのかなと思う。もし、椅子を戻した時が透明人間や幽霊が図書館で集中して本を読んでいる瞬間だったら「邪魔すんなよ」と理不尽にキレられるかもしれない。物腰が柔らかければ「すいません、透明な私が悪いんですよね」と許してくれるだろうが、集中している時に邪魔されたことへの怒りが爆発して、末代まで呪ってくるだろう。「夜読みに来いよ」とも思う。閉館してから自由に読んどいてくれよ。開館中は可視化できるものを優先してくれ。
と言っても、元に戻しておいた方がいいので、引きっぱなしだった椅子も丁寧に元の位置に直してあげた。椅子を机の下に入れる前に「今から移動させますよ」と透明なないものに対して立ち上がる時間を少し与えて。ないいものを想像して、変な気遣いが発動した。この一連の流れが自分の真骨頂だと思う。